訪問診療同行記


2007.11月号

 葉桜の頃、都下の西南部で開業する友人から電話がありました。私の町まで上下総義歯のリベースの往診にゆきたいが付き合ってくれというのです。患者さんは酸素を常時吸っていて家からはあまり出られず、夜間に息苦しさと動悸を覚えて救急車を何度も呼んだことがありました。何が起こるか分からないので、見守っていて欲しい、との依頼でした。
 人間が堅く内気な私と違い、友人は柔らかくさばけた人で、還暦を過ぎていますがいい男です。「その患者さんは若いとき美人さんで、憎からず想っていたでしょ?今は一人暮らし。」「そう!よく分かるね。」想像力の豊かな私には、その患者さんの境遇についてのイメージが膨らみました。彼一人でもきっと大丈夫、と思いましたが、街一番の赤提灯でごちそうする、との申し出に二つ返事で承諾しました。
 往診当日、治療道具を抱えた彼と、我が家の最寄り駅で落ち合いました。患者さんは想像通り、昔はさぞかし美人だったであろうと思わせる人で、一時期芸能界にも身を置いていたそうです。当時の写真が飾ってありました。慢性の肺気腫で在宅酸素療法を受けていました。
「夜中に目が覚めて、今後のことを考えたら息苦しくなって救急車を呼んだのでしょう?」答えはイエスでした。世間のほとんどの人が平和な眠りについている真夜中、一人暮らしの心細さ、今後の不安から過換気症状を起こしたのでした。治療は侵襲の少ない義歯のリベース、術者は信頼厚い先生です。精神的な緊張から過換気が起こるはずもありません。治療中に苦しくなっても、酸素濃度は患者さん自身でコントロールできるから大丈夫です。酸素濃縮装置も予備の酸素ボンベも揃っています。彼一人で治療しても何ら問題はありませんでした。
 在宅酸素療法を受けている方の多くが喫煙者だったそうで、患者さんも以前はヘビースモーカーでした。肺胞でのガス交換は大気圧が高いほど有利です。低気圧の通過時、梅雨時は息苦しさが増し、台風のときは最悪だそうです。空気中の酸素を濃縮する機械が普及し、携帯に便利なボンベも改良されて、以前と比べると患者さん達の行動範囲は格段に広がりました。
 私は傍で治療を見守り、患者さんと世間話をしていただけでした。総合病院にいるおかげで、いろいろな患者さんに接する機会が持て、二人の役に立つことができました。赤提灯での振舞酒で上気した頬を夜風が心地よく撫でてくれる春の宵でした。


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