口から食べること


2012.11月号

 
歯科医師である友人の話です。「母親が入院してしばらく経管栄養だった頃、車椅子に乗せてもすぐ眠ってしまうんだよね・・」食べることは生きることと同意義と考えてもよいでしょう。多数の筋肉と神経群を協働させて行う作業であり人生の楽しみ、コミュニケーションツールでもあります。しかし、口から食べるためには環境的、機能的、心因・認知的問題を解決しなければなりません。


以前に当院の医科病棟に入院されており総義歯が合わないという主訴で受診依頼を頂いた90歳のAさんがいらっしゃいました。確かに使用中の義歯は教科書的に不適合と思われましたがそれよりも気になったのは御本人がぼーっと目を閉じられてコミュニケーションが取りづらかったことです。「咬んでください」とお願いしても力無くあちこちで口を閉じるだけで、義歯の作製で一番重要である咬み合わせを決めることが難しそうでした。歯は存在するだけでは咬めないのです。私は現在の義歯を修正した方がよいかなと思いましたが担当していた当時の研修医である岩丸先生は新しく義歯を作製したいと言いました。


「だって『Aさん、美人だったでしょ』と言うとニコッと笑うんですよ・・」
動機はいささか不純でしたがその心意気がうれしくて一緒に診ていくことになりました。何とか退院直前に義歯を完成させましたが、果たして食事に使っていただけるのか不安だったことをよく覚えています。
そして数カ月後のある日、その方が外来に再診でいらっしゃいました。車椅子での来院でしたが介助の必要なく診療台にお座りになりました。「ずいぶんお元気になられましたね」と声をかけると「前よりも食べられるようになって良かったです」とはっきりおっしゃり、またびっくりです。義歯の出来は決して合格点でないことは分かっていますので、退院されたことによる環境の変化が大きく影響していると感じられました。


自分が学生の頃、歯科医療の教育はどちらかというと「虫歯」と「歯周病」の治療に多くの時間が割かれており、いかにうまく歯を削り金属冠や義歯を作ることに一生懸命でした。高齢化社会となり歯科医師も歯を治すことだけではなく、食べることをサポートするために多くのことを考えなければならない時代になっています。

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